宇多津

2006.10.3

2006年4月宝林寺から15キロ離れた寺院の兼務住職となった。
寺名は青松山圓通寺、在所は香川県綾歌郡宇多津町
現在宝林寺を離れ単身赴任中である。

ここ宇多津は古い町である古墳が点在し石器や土器が出土している、農耕も早くから盛んであった。ー新宇多津町誌参照ー

町誌には豊かな海の幸、山の幸そして農耕社会の発展の検証と続き製塩文化の発展で他の集落や豪族より優位となり大いに栄えたと続ける。
万葉集にも当時の風景が見られる。
霞立つ長き春日の暮にける わづきも知らず村肝の 心を痛み子息 うらなげ居れば玉襷 懸のよろしく遠つ神 わが大王の行幸の 山越す風の独居る吾が衣手に朝夕に 還らひぬれば大夫と思へる吾も草枕 旅にしあれは思ひ遣る たづきを知らに網の浦の 海処女らが焼く塩の 念ぞ焼くる吾が下ごころ
(網の浦と云う地名は現存している 焼く塩とは製塩 吾が下ごころとは何だろ)

宇多津は瀬戸内海の中ほどであり当時の効果的は交通手段(船)の要所となり文化・文明の大動脈と古から栄えていたのである。
町誌には細川頼之との関連も深く記している、武士の時代となり宇多津の東には松平藩(高松)西には生駒藩(丸亀)の城下町ができ、この策として寺町も組み込まれ多くの宇多津の寺院は各城下に移転した。
町は空襲も無かった事もあり古風な商家・民家の佇まいや筋道が至るどころにあり、大きな屋敷の前に立てば経済・文化の華やいだ時期が聞こえて来るようだ。
しかし、この年で単身赴任は〜まあ、物事は中立であり吾が判断で悪くも思い、善くも思う。ー宇多津全景ー

たくさん引用した新宇多津町誌は読み応えがありました、それは発行者の熱意もさることながら宇多津には有史以前より続く人の営みがあり多くの歴史がありそれを支える大いなる地理的条件や積み重なってある消え去ったが残りもする人情が造り出した町誌ではないかと新参者は思う。




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